石井鶴三

美術資料室について

大正13年、石井鶴三は、長野県上田市で彫塑講習会の講師としてやってきました。この講習会は大正15年から正科となる「手工教育」のため教師たちの講習として小県上田教育会が開いたものでした。それ以来昭和45年まで毎夏講師として指導に当たりました。この半世紀の間に培われた精神的な絆が、石井鶴三美術館の開設の原動力になりました。昭和60年、小県上田教育会は、創立100周年にあたり、何としても石井鶴三美術館を建てたいと願い、上田市の旧図書館を生かして、美術館を開設させました。しかし、平成20年、建物の耐震性など様々な問題が生じて、美術館の利用を継続することができなくなり、小県上田教育会会館に移設し、美術資料室と改名しました。

「雷試作」

「雷試作」山の上に手を上下に踏ん張って稲光と共に立つ 1957(昭和32年)ブロンズ
「風」一団の雲を両手にかかげ山を越えてくる男の幻影 不詳ブロンズ
「裸女渓流」1967(昭和42年) 油彩
鶴三は、山をテーマにした作品を多く残しています。山を、特に信州の山を愛した芸術家です。時間があれば山を訪れ登りました。二十歳の時、山本鼎(上田城址公園内に記念館がある)に誘われて浅間山に登りました。夜道を歩き明け方頂上に着くと、遥か西雲海の上に雪を頂き屏風のように連なった山々が見えました。その朝日に輝く山々の美しさや気高さに強く心を打たれました。そして、あの山々にぜひ登ってみたいと思うようになったのです。それから多くの山々に登りました。そして、山の中でいろいろな幻影を見るようになりました。美しい女の人が裸で水浴びしている姿、腕組みをしている森の男など。

彫刻家としての活躍

海外留学から帰ってきてから発表された荻原碌山の「文覚」「北条虎吉」に感動。新進作家としての出発「荒川嶽」(1911年)の制作。
明治44年、甲州から北岳、間ノ岳、塩見岳を経て荒川岳、赤石岳など南アルプスの山々を登りました。東京美術学校時代この山から受けた感動を表現してみたいと考えました。岩に両手をつき、こちらを見ている女の全身像。この作品は、第5回文展に出品して特選になりました。今は頭部だけになり、「能楽の山姥のようだ」と評価された作品が石井鶴三美術資料室に展示されています。
当美術資料室に展示されている作品。
「風」「雷試作」「藤村先生像」「相撲(三)」「相撲(五)」「裸女」「噴水盤試作」「踊り」「船弁慶」46回にも及んだ上田彫塑研究会で講習生と一緒に制作した「信濃男坐像」「老婦袒裼」「シュミーズの女」「少女坐像」他多数。

版画家としての活躍

石井鶴三美術資料室は、鶴三の版画のほとんどを収蔵しています。
1918年(大正7年) 日本創作版画協会の発足、後に日本版画協会になる。山本鼎が織田一麿、戸張孤雁、寺崎武男たちと発起人になり創立。鶴三は、「雪国」「泣く子」を発表。
1922年 会員になる。
1941年 日本版画協会会長として活躍。

挿絵画家としての活躍

吉川英治の「宮本武蔵」はよく知られています。その挿絵を担当したのが。石井鶴三です。この挿絵と相まってこの小説は大評判になりました。
中里介山作「大菩薩峠」、直木三十五作「南国太平記」、子母澤寛作「国定忠治」「父子鷹」など、新聞や小説の挿絵を多数描く。挿絵の第一人者といっていいでしょう。
中里介山作「大菩薩峠」の挿絵では、「挿絵は小説の複製であるので、その著作権は小説家にある。」「挿絵は画家の画心の働きによる創造制作であるので、当然著作権は画家にある。」著作権問題として社会的に大きな反響をよびました。挿絵の著作権が画家の物であることが認められたのです。これが、社会的に低く思われていた挿絵や挿絵画家の関心や評価を高める原動力になりました。

「父子鷹」(おやこだか)は読売新聞に連載された子母澤寛の小説。勝海舟の父、勝小吉を中心に江戸の人々の生活を描いたもの。

信州教育と石井鶴三

信州教育に芸術と人格を通してきわめて大きな影響力を与える。
上小彫塑研究会(大正13年~昭和45年)  毎夏指導
長野絵画講習会(昭和12年~昭和33年)
木曽 「木曾馬」 「藤村像」の制作
長野県下各地区での児童生徒作品展講師
彫塑研究会、絵画講習会で講習生と共に制作する中で、
「やる以上は本格にやらなければならない」
「芸術は感動から生まれる。感動を豊かにする人間修行である。」
「芸術は、まず生活を正しく美しいものにすることである。美術は生活が基礎である。」
と語り、自ら芸術修行、生活修行を貫きました。
それは、鶴三が所属する日本美術院の研究のあり方の一つ
「日本美術院は自由研究を主とする。故に教師なし先輩有り、教習なし研究 有り。」
の実践でした。
児童生徒作品展では、「気韻生動」を作品の中に求めました。そして、どの子どもの絵の中にもその良さを見つけるように時間をかけて見取るようにしました。
常に自ら「本格」を目指して追求している姿は、そこに学ぶ者たちに深い感動を与えました。鶴三を師として学ぶ者たちは、長野県下に おいてそれぞれ教育に当たり、芸術の上だけでなく、多方面において大きな影響を与えました。

気韻生動とは、作家の心が絵に反映し、気品や風格が生き生きと感じられること。

相撲

鶴三は、「彫刻は、塊りの芸術である。彫刻的に見れば力士は一つの塊りであり、相撲は動く塊りである。」といっているように相撲を好み相撲を題材にして多くの作品を残しています。
1950年(昭和25年) 横綱審議委員会委員
1969年(昭和44年) 相撲博物館館長
当美術資料室では、「相撲(三)」「相撲(五)」のブロンズや日本画を展示しています。

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石井鶴三美術資料室
住所:長野県上田市大手2-7-13上小教育会館内 電話:0268-23-1151
入館料:無料 開館時間:午前10時から午後3時 休館日:土日祝日 年末年始 夏季
本の紹介 「馬に夢をのせて―石井鶴三の生涯―」
石井鶴三の生涯を伝記風にまとめてあります。 本文186ページ。 石井鶴三美術館に展示されている作品を中心に図柄を挿入。 大きな字で読みやすくなっております。定価1,500円(税込み)+送料